虹色NOTEBOOK

日々の出来事 想いのままに……

私の子供

(移設復刻 改訂記事)

 

バレエにはバスで通っていました。徒歩5分→バス10分→徒歩5分。

 

母が病気を発症したのは、私が幼稚園年長さんの時らしいです。知りませんでした。全身の筋肉が機能しなくなっていく、当時は特に珍しく治療法のない不治の病。

心臓は筋肉で出来ていますから、全臓器が機能しなくなっていく事になりました。

私が1年生の時、大阪の大都会の大病院に初めて入院しました。

家から母が居なくなってしまった。寂しかったです。

 

父が早く帰って来て、出前を頼んでくれました。お店は限られるし、飽き飽きしました。

 

日曜は、外食とお見舞いデー。

気合いを入れて!? ロングドレス。スカートで隠れるけれど、バレエタイツを履いて。(色が変わっているから、特別なオシャレのつもりだった)

面会終了の時間になり、帰らなくてはいけない。中之島の向こう岸に車を停め、母は病室から手を振ってくれました。

 

私は、慌てて降り、段差につまづき転けました。腸骨を打ってヒリヒリジンジン! 普段なら泣くところです。

アザは消えるのに2週間かかりました。

 

日暮れて暗い中、部屋の明かりを背に手を振る母。シルエットしか見えません。

(後で聞いた話、母からもよくわからなかったんですって。暗くて車は沢山走っているし。それもそうですね。その時は見えていると思っていたんです)

いつまでも手を振っていたかった。母を置いて帰るのが嫌でした。暫くして、母は窓を閉め中の影も見えなくなりました。去って行かれた気分でもある……寂しかったな……父は「さぁ帰ろか……」

 

しばらくして、家政婦さんに来てもらう事になりました。私より大きな息子さんお二人いらっしゃり「女の子がかわいいかわいい。ほしい」と可愛がってくださり、私もとても懐いていました。

 

遠足の日、お弁当を早起きして自分で作らなくては!? と心配と緊張していたら、家政婦のおばさんが朝の7時に持って来てくれました。旦那様や息子さんたちの朝ご飯やお弁当……送り出さなきゃいけないし、ウチへ7時に持ってくるとは、とっても早起きしなきゃいけないやん!!

どのような契約だったのか知りませんが、

朝っぱらから片道20分くらいの距離を自転車漕ぎ漕ぎ持って来てくれた! 

子供心に感動しました。

愛情の有志で快くして下さっのだ! と、とても嬉しかったんです。

 

母は3カ月くらいで退院しましたが、半年後、小学2年の時、救急車で近くの病院へ運ばれました。

お見舞いに行くのはラクでしたが古びた病院。気分が滅入る嫌な空気感の病院でした。

 

この頃には大好きだった家政婦さんはご主人の転勤で別の方に変わっていました。

 

バレエは、家政婦さんにお友だちとの待ち合わせの場所に連れて行ってもらい、一緒に連れて行ってもらっていました。

寂しく、肩身の狭い、情けない気分で嫌でした。

よく休むようになりました。

母が退院し、ホッとしました。これでバレエに行ける! と。

 

バレエでは、子供のとても多い時代、更にテレビドラマの影響で大人気!! 女の子の習い事はピアノかバレエ☆

そんな大ブームもサーッと潮が引くように去る。それでも同じ小学校の同学年生が同じバス停から通っており、6人はいたでしょうか……

 

夕方、バスは遅れまくって、よく遅刻しましたが、
早い時間のクラスだった頃は、師匠が車でバス停の前を通るタイミングに合うと子供たちだけ乗せて頂けました。ぎゅうぎゅうに詰め込んで。生徒も減って来て、名前もやっと覚えてもらえるようになった頃の事。

 

私は支部教室所属でした。舞台は沢山出て経験した方が良いから! と、本部の子たちがすっかり減った支部の発表会に出てくれ、友達になれたし、刺激も受けました。

 

翌年、小学校の高学年の頃、今度は私たちが本部の発表会に参加する事になりました。

徒歩5分→バス25分→地下鉄と私鉄電車を乗り継ぎ50分→徒歩10分。1時間半かけて、毎週土日通いました。(+支部のレッスンは週2)

バレエ頑張っていきたい! と思うようになったのは、その頃です。

まぁ何と遅い。

 

一人でも通えましたが、例のお友だちも一緒だったので、またまた一緒に連れて行ってもらっていました。

私は、愛想も人懐きもよくはなく、お喋りもしない。

そのお友だちとも子供同士、特に仲良かったわけでなく、親同士の付き合いでしたから……

低学年の頃よりも更に肩身狭い想いに感じていました。

そのお母さまにとっても、かわいくなかったことでしょうね……

 

歳が大きくなるにつれ、レッスン開始の遅い、後のクラスになります。

そして続ける生徒もどんどん減ってくるもの。

盛況し続ける本部教室と違って、支部教室は、異常な盛況ぶりから一気に潮が引きました。小学校高学年の頃には中学、高校生も一緒の合同、最後の時間帯のクラス。

そして、例のお友達も辞め、同じ地域から来る子はいなくなり私だけになりました。

片づけをお手伝いし、師匠は、ちょい遠回りをして車で近くまで乗せて帰ってくださっていました。

 

母は3年生~5年生の間は入院しませんでしたが、研究している医師がおられるとの事で、大阪城近くの病院へ通っていました。そして、年に一度は詳しい医師がおられる山梨県に行きました。

 

無事に過ごしていたかのようでしたが、6年生の時、ある朝起きたらキッチンダイニングの部屋が新聞が敷き詰められており、隣の居間には布団が敷かれていました。

何事か?!

母は前夜、気付いたら、足の血管が破裂し、血の海になった! とのことでした。それからは一気に悪くなっていき、長期入院、安定した合間に退院するも、すぐに悪化し入院の繰り返し。ほとんど居ませんでした。

 

もっともっと病である事、不治である事。

主婦が、母親が、一人入院生活を続けている、そんな気持ちをもっと想いやってあげられていたら……

 

よくはわかっていなかった。結構クールでした。

 でも……私自身にとっては、だから良かったのかもしれません……

 

子供は、感謝もありがたみも、遠慮も、大切にすることも……

何も知らないで育つことができるのも、ある意味幸せなんじゃないかと想うんです。

 

感謝の気持ちを持て。とか、大切にしろ。とか、

空気読め。とか、少しは遠慮しろ。とか、礼を言え。とか……

それらは大切ですが、無さ過ぎては、恥をかいたり、困ったりしますが。

 

何も心配せず、何も疑うことなく、遠慮することなく、自分の場所が与えられ、大きな心で受け止め、許され、育まれる家庭。育っていける事は、幸せ。

 

私は幸せだったなと想います。